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日本人ブラジル移民100周年

最近は日系ブラジル人の里帰りツアーをガイドすることが多くなっています。両親の国を知りたい人、自分のルーツを探りたい人、60年ぶりの初めての里帰りというおばぁさまもいらっしゃいました。中には生粋のブラジル人もいますが、ほとんどの方が日本人のお顔なので、バスのドライバーさんには「ガイジンさんじゃないの?」と驚かれてしまいます。日本語の会話はできなくても挨拶はポルトガル語訛りで「おはーよー」「ありがーとー」「またあーしたー」・・・ つられて私も移動時間中に食事の説明で「Hoje vamos comer OBENTOU dentro do DENSHA」(=今日の食事は「電車」内で「お弁当」です)・・・なんて案内してしまいます。日本語とポルトガル語をミックスした会話です。

現在、ブラジルの日系人は150万人以上と推定されています。その歴史は19世紀後半に遡ります。その頃の日本は明治維新による政策の結果社会体制が大きく変化し、貧困と失業に苦しんでいました。そのため「海外で働いてお金を貯め日本へ戻る」と夢を抱く移民希望者が増加しました。一方ブラジルは奴隷制度を廃止した直後で、コーヒー農園における人手不足が深刻化していました。そこで海外からの移民という新しい労働力に目をつけました。

「笠戸丸」 1895年ブラジルと日本の間に日伯修好通商航海条約が調印され、1907年には皇国植民会社とサンパウロ州農務局が日本人移民の導入契約に調印しました。ブラジルのコーヒー農園には金のなる木がある。そう信じた781人の日本人農民を乗せて「笠戸丸」は1908年4月28日に神戸港を出航し、長旅の末6月18日ブラジル・サントス港に到着しました。移民を認められたのは、夫婦と子供や兄弟を含む働き手の3人以上いる家族でした。中には条件をクリアするために形式上の夫婦になる人もいたそうです。

到着後、移民した人々はサンパウロ州の6箇所のコーヒー農園に送られ生活を始めました。しかし現実は厳しいものでした。慣れない土地にあって日本とまったく異なる言語や習慣での苦しい生活の中、過酷な労働、低い賃金、病気などで多くの人が命を落としました。それでも日本からの移民は労苦を乗り越えて団結し、コロニア(植民地)を作りました。コロニアでは組合や大人たちが先生になり子供たちに日本語を教える日本人学校ができて、移民の人たちは自分たちの生活を安定させることに徐々に成功していきました。

「移民タウン」 ところが1930年代、当時の大統領は言語や思想を制限する政策を取りました。外国語雑誌発行の禁止、外国語学校の閉鎖などで、コロニアの人々のブラジルへの同化を強制しました。そして第2次世界大戦勃発でブラジルは日本との国交を断絶。敵国人となった日本からの移民は土地や財産を没収されるなど生活にいろいろな規制を強いられました。終戦直後には日本の負けを受け入れた「負け組」と勝利を信じて疑わない「勝ち組」に分かれた移民同士の悲しい対立もありました。1951年に国交が回復しても、日本の悲惨な現状を知った多くの移民たちはブラジル永住を決意しました。

1980年代の日本は高度成長期に突入。国内産業の発展が急速に進むと労働者の需要が高まり、外国人労働者の受け入れを開始しました。1990年には入国管理法が改正され、日系ブラジル人が来日し職に就くことが可能になりました。逆にブラジルでは経済低迷が長引き、「デカセギ」として日本に逆戻りするようになった日系人が急増しました。現在は約30万人の日系ブラジル人が日本で生活をしています。

「記念碑」 サントス市の海岸には「ブラジル日系移民90周年」を記念して「日本人移民ブラジル上陸記念碑」が建てられました。同じ石碑が神戸市メリケン波止場にもあるのをご存知ですか?当時、海外への移住者はすべて神戸港から出発したそうです。神戸は海外日系人にとって心の故郷といえるでしょう。冒頭でふれたおばぁさまも、この波止場から夢の土地に向かって旅立ったそうです。記念碑に向って深々と頭をさげておられました。ドラマ「ハルとナツ」の登場人物が実際に目の前にいる気分でした。

2008年、日本人ブラジル移民100周年を迎えます。

(村田由紀子)

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