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「中尊寺」

中尊寺参道入り口から中尊寺ガイドの方に境内を案内していただく。
参道を背にして前方を見ると、通りを隔てて丸い水槽と松ノ木が見えるが、その松の根元に武蔵坊弁慶の墓(伝)がある。さらに後方に小高い山が見えるが、それが高館で源義経が青年時代を過ごし、後に藤原泰衡に攻められ最後を遂げた場所でもある。

中尊寺 月見坂と呼ばれる参道の両端には、伊達氏が植林したという樹齢370年の杉の大木が林立している。紅葉も多く、秋には多くの観光客が訪れる。少しきつい上りを過ぎ、300mほど進むと右手に東物見台がある。左手に弁慶堂、薬師堂、右手に地蔵堂を見ながらさらに進むと右手に本堂がある。参道をさらに進むと左手に宝物館である讃衡(さんこう)蔵、金色堂がある。金色堂、経蔵、旧覆堂を巡って参道に戻ると釈迦堂があり、そこが参道のほぼ終点で、左手に白山神社の赤い鳥居が見える。神社参拝、野外能楽殿見学後、上ってきた道を下っていくことになる。

東物見:北上川と束稲山の眺望が格別。北上川と衣川の合流する「中の瀬」で武蔵坊弁慶が立ち往生したという伝説がある。平泉を初めて訪れた西行は、桜の美しさに打たれ、「聞きもせず束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」という歌を残している。

本堂 本堂:中尊寺の中枢、山内最大の建物で明治42年の再建。入母屋造りの堂々とした大屋根が印象的。もともと中尊寺には堂塔40、僧坊300の大伽藍が存在したが、建武4年(1337)の野火で、金色堂と経蔵下層部を残して全ての堂宇が消失、殆どのお堂はそれ以降の再建。本尊の阿弥陀如来坐像は現在讃衡蔵に安置されている。

金色堂(国宝):天治元年(1124)、初代藤原清衡により建立。往時の面影を伝える殆ど唯一の建築で、名の由来は堂の内外が金箔で覆われていたため。間口、奥行きともに三間(5.5m)四方で藤原三代を祀る須弥檀があり、漆芸、金工の総合的技術が網羅されている。東に向いて立つ金色堂は阿弥陀堂であり、その前に立つ参拝者は西方の阿弥陀仏がいる極楽浄土に向かって祈りを捧げることになる。
中央須弥檀内部には初代清衡、西南壇には二代基衡、西北壇には三代秀衡の遺体と四代泰衡の首級が納められている(泰衡は義経を襲撃した後、頼朝軍に追われ出羽国に逃亡するが、家臣の裏切りに遭い殺害される。当初忠衡の首級とされたが、後に泰衡のものと判明する)。各須弥檀上中央に阿弥陀如来坐像、左右に観音、勢至菩薩の脇侍と6体の地蔵菩薩、前方に持国天、増長天が安置されている(西南壇は増長天を欠く)。
鎌倉幕府の公的記録である「吾妻鏡」(1185)には金色堂について「堂内に三壇構ふ、悉く螺鈿なり、阿弥陀三尊、二天、六地蔵、定朝之を造る」とあるが、真に定朝(?〜1057)作かは不明。像は全て木造、漆箔で、中央壇、西北壇の阿弥陀如来は定印、西南壇の如来は来迎印を結んでいる。
1962年から7年間にわたる大修理により創建当初の輝きが甦り、1965年からは現在の覆堂(空調設備完備、鉄筋コンクリート製)で覆われている。内部ではガラス越しに拝観する。

経蔵(重文):宝形造り、三間四方。創建時は二階瓦葺であったが、建武4年(1337)の野火で上層を失う。 現状は寛永年間の修理による部分が多い。「紺紙金銀字交書一切経」等貴重な経典を収納した。経典類と本尊の「騎獅文殊菩薩と四眷属像」は讃衡蔵に納められている。
(現在屋根修理中)

松尾芭蕉像 松尾芭蕉像:旧覆堂そばに、金色堂建立850周年を記念して設置される。46歳で平泉を訪れ、金色堂の美しさに圧倒され、「五月雨の 降り残してや 光堂」の句を残している。

旧覆堂(重文):鎌倉時代(1288)の建造とされ、新覆堂が完成するまで金色堂を保護していた。木造、五間四方(金色堂は三間四方)になっており、内部に柱がない。別名鞘堂。

白山神社:850年に慈覚大師円仁により加賀の白山から勧請される。中尊寺の隆盛とともに北方を鎮護する神として崇められ、古式ゆかしい神事芸能が行われていた。

野外能楽殿 野外能楽殿(重文):嘉永6年(1853)伊達氏により再建。中尊寺では江戸時代以来、能の演者は山内の僧侶が代々家職として勤めるという伝統があり、現在も「御能」として春、秋に上演される。8月には野村万作による薪能も上演される。

讃衡館 讃衡館:開山1150年を記念し2000年に竣工。以前は各お堂に安置されていた本尊等、中尊寺一山の寺宝を一堂に集める宝物館で、国宝、重文約三千点を納める。

*讃衡館で中尊寺文化財管理部執事 菅原光聴和尚よりお話を伺う。
中尊寺について:慈覚大師円仁により開山(開基850年)。その後、前九年、後三年の役を勝ち抜いた初代藤原清衡が、戦乱で病んだ奥州の地を浄め、戦死者を弔うことを目的に1105年造営を始め、21年後に完成。平泉を中心とした藤原氏の栄華は百年続くが、その後源氏により滅ぼされる。
清衡について:母は陸奥俘囚(蝦夷)の長、阿部頼時の娘、父は在地官人、藤原経清で前九年合戦の間に出生。阿部氏が滅亡、父が戦死したその合戦の後、母と共に敵方の清原家に入る。やがて清原家内紛が後三年の役に発展、清衡は勝者となるが合戦中妻子を失う。出羽と陸奥の支配権を手に入れるも、武力闘争への悔恨の念は深く、仏教への帰依を深める。

(佐川 淑江)

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