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イザベラ・バードの東北紀行

赤坂先生の著書と新聞記事 東北学を提唱してこられた学習院大学教授の赤坂憲雄先生に、明治初期に東北と蝦夷地を旅した英国人女性イザベラ・バード (1831〜1904)の旅行記を通して見える当時の日本と東北についてお話いただいた。後半の質疑応答では、先生が長年フィールドとしてきた東北の被災後の様子についてうかがった。
紀行作家イザベラ・バードは明治11年、46歳で来日。通訳を伴い3か月間、戊申戦争の傷跡の残る東北から蝦夷地を旅行し、その体験を”Unbeaten Tracks in Japan”として出版した。明治初期の東北各地の様子が記録されていて興味深い。
例えば当時すでに牛馬による輸送の全国ネットワークができており、各駅で頼むと全国一律料金で馬や牛などの手配ができ、バードの旅をロジスティックな部分で支えていたことがわかる。その他にも日本には乞食や浮浪者がいないこと、女性も安心してひとり旅ができること、人々は初めて見る外国人女性に並々ならぬ好奇心を示しつつも態度は抑制的であったこと、子供たちがよく躾けられており、学校では体罰がなくても真面目に勉強することなどが記されている。里山の美しさについては繰り返し述べられ、米沢盆地は東洋のアルカディア(桃源郷)だと絶賛している。
赤坂先生が特に強調されたのは、バードに同行した18歳の青年、伊藤君の活躍である。現代の通訳案内士と同様、彼も旅の添乗、通訳、ガイドに演出と一人何役もこなしてバードの旅の成功に大きく貢献したが、一方で当時高まりつつあった日本のナショナリズムを背負って、時にバードに立ち向かう存在として描かれている。

(質問)3.11以後、被災地を歩いてお感じになったことは?
明治のはじめ、日本の人口は3000万人。それが現在までに4倍に増えた。その間国民を食べさせるために浦を埋め立てて水田にし、海と山の境界を押し広げていった。そこが3.11で泥の海に戻った。一方で、古くからの神社や縄文遺跡等は津波到達地点より上にあって無事残っている。昔の人々は津波の届かないラインの内側で暮らしていたと思われる。被災地では今後30〜50年で人口が半減することが予想されるのに復興案ではそれを視野に入れず、あくまで人口がMaxの今を基準に巨大なコンクリートの防潮堤で海岸線を固めて町を埋め尽くそうとしているが、これでは人の暮らすところが無くなる。人と自然の関係を再構築すべきではないだろうか。

(質問)平泉と達谷窟、両方に寄るツアーがあり違和感を覚えるが、先生のお考えは?
青森のねぶた祭ではかつて最高賞を「田村麿賞」という名で呼んでいたが、征服者を崇めるのはおかしいとの批判が起こり名称をかえた。達谷窟も蝦夷の拠点を封じるために坂上田村麻呂が建てたという由来があり、地元で批判が起こった。平泉と達谷窟、両方存在するのが東北の現実。東北には、縄文以来の分厚い歴史があり、その上に弥生の稲作文化が覆いかぶさるように重なってきた。そもそも熱帯性の稲はヤマセに見舞われる東北の風土には合わない作物だった。が、近世以降政治的にコメを作らされてきた。その結果として冷害にやられ、飢饉が起こった。
平泉は京文化の模倣に過ぎないと言われてきた。しかし、ここが仏教浄土思想実践の壮大な実験の地だったという認識が広まり、ユネスコの世界遺産登録につながった。南三陸の鹿踊りの供養塔にある「生きとし生ける物全ての命のためにこの踊りを奉納する」という碑文や、宮沢賢治の作品にある「打つも果てるもひとつの命」という思想が平泉に流れている。人と自然との関係が近く、海と山で命のやりとりをしてきた土地だったと言える。

(大日方 由美)

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