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花街「神楽坂」

神楽坂新道 東京の花街「神楽坂」の研修に参加した。
「神楽坂組合」理事長で料亭「千月」のご主人でもある渋谷信一郎氏のご案内で、神楽坂の街を見学した。

神楽坂はJR飯田橋駅西口から牛込橋を渡った神楽坂下から北へ延びる400メートル程の上り坂である。ここは江戸城北の丸へと続く牛込御門があったところで、1630年代に若狭小浜藩(今の福井県西部)酒井家の江戸上屋敷から江戸城へ登城するために整備したものといわれている。「神楽坂」の地名の由来は諸説あるが、近くの八幡で供される神楽の音が聞こえてきたことによるという。

神楽坂には横丁が多い。「神楽小路」、「仲通り」、「本多横丁」が平行して神楽坂通りから東に伸びている。仲通りから更に細い路地を左に曲がると石畳の「芸者新道」や「かくれんぼう横丁」があり、そこには芸者置屋や料亭が点在している。石畳の路地を行くと本多横丁に通じている。本多横丁は神楽坂最大の横丁で、狭い道の両側には料亭や飲み屋が軒を連ねている。その名はかつて本多対馬守の屋敷があったことに由来する。

神楽坂通りの中ほどに、古くから人々の信仰を集めてきた「毘沙門天(善国寺 )」がある。毘沙門天の縁日は人出が多く、通行止めとなった。これが現在の歩行者天国の始まりだという。明治20年頃の話である。その毘沙門天を左に見て横丁に入ると、花街の情緒漂う石畳の路地が続き、隠れ家風の落着いた料亭が散在する。鉤の手に続く路地を更に行くと、「本書き旅館」の愛称で有名な旅館「和可菜」がひっそりと佇んでいる。かつて、物書きを業とする人達がここに泊まって小説や脚本を書いたという。神楽坂は明治以降の文学者、文芸人が多く住んだところで、東京芸術協会もここにあった。

昼食前に「検番(見番ともいう)」を見学した。検番とは芸者屋を管理する事務所であり、芸者への取次ぎ、玉代の勘定などを行うところである。また、芸者さんが踊りや三味線の稽古をする場所でもある。
午後からは芸者のまゆみ姐さんが加わり、お二人からお話を伺った。話題は神楽坂の歴史、茶屋の歴史、芝居町と遊里、花柳界事情と多岐に亘った。
西の祇園と対比されるここ東の神楽坂は、新橋、赤坂、芳町、浅草、佃島と共に、「東京六花街」を形成する。花街は、戦前は料理屋、待合、芸者置屋の三業で構成されていたが、戦後、料理屋と待合の役割が一緒になり、今の料亭になった。

料亭に上がるにはまず電話予約をする。このとき紹介が必要である。料亭の本質は訪れた客に最高のもてなしを提供することであり、最高の室礼、料理のほか、検番を通じた芸者の手配、お土産、お供(ハイヤー、タクシー)、二次会(スナック等)の手配を行う。料金を料亭が立替払いする関係もあり、客の信用が重要となり、「一見さんお断り」の形式が慣例になったと言われている。芸者の数は減少しており、東京六花街で約300人、神楽坂では30余名。置屋の数は24〜5である。

神楽坂路地 この街を歩いて感じたことは、花街の風情が色濃く残る中に、洒落たフレンチレストラン、喫茶店、ショットバーなどが違和感なく軒を並べ、老若男女で賑わっていることである。「パリのモンマルトルの丘に雰囲気が似ている」とフランス人に人気があるのも、神楽坂が文化的な雰囲気をもち、また新しいものをうまく取り入れつつ、伝統の「最高のもてなしの心」を育ててきたからなのかもしれない。

(真木正昭)

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