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「 間 」について

私は五年ほど前にガイドとして皆様の仲間に加えていただきました。毎回外国人のお客様を案内するたびに、そう豊かでないガイド経験ゆえ話の内容に苦労しています。話題の一つとして、日本人が古来から持っていた"間"の感覚について説明することがありますが、最近の日本人はあまりこの感覚に美を感じなくなったのでしょうか。

「間をつめる」、「間をはかる」、「あっという間の」、「束の間の 」、「間延びする」、「間が持てない」、「間を置く」、「間を欠く」、ふだん何気なく使っている言葉である"間"。短歌や俳句、水墨画、能舞台、それに日本古来の音楽の中に見られる"間"、"空間"。目には 見えず、口にも出さない、奥ゆかしさ・あいまいさによって相手に解釈をゆだねる余地。これがわび・さびに通じる「日本人の心の奥にある美意識の一つではないか」と最近思うようになりました。

日本では昔からある仏像を修復する場合には、意図的に金箔を張らないと聞いています。時を経て色彩をなくし古くなった仏像の表面や、日本の横笛や尺八のあの風音を含んだかすれるような音色とともに、私もそういったものの中に荘厳さと、時を経た古色の美しさを感じるようになりました。

指揮者カラヤンがかつて京都の竜安寺を訪れ、きれいに掃き清められた庭園を眺めてこうつぶやいたそうです。「何かが足りない」その時、白砂の上に木の葉が何枚かはらはらと落ちてきました。それを見てカラヤンはやっと満足した表情を見せたそうです。「あまりにも完全なものは落ち着きを与えない」という意味でしょうか。

ベートーベンの第五交響曲五番「運命」では、冒頭に有名なモティーフが二回繰り返されています。その繰り返しの間に置かれる休符、譜面上ではフェルマータ(延ばし記号)がつけられています。この"間"をどのくらい長く取るのか、指揮者によって千差万別です。カラヤンの"間"は比較的短めです。竜安寺を訪れた後で、カラヤンの演奏が少し変わったのではないかと私は勝手に想像したものでした。

幽玄の世界、枯淡の境地、余白の効果の"間"の美学(あまり多用すると間抜けになりますが!)を大事にしたいと思います。

(K.K.)

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