飛騨の宮大工

「雪の吉島家外観」 会場:吉島家住宅
吉島家は1784年に創業され代々酒造業に従事、生糸繭の売買でも栄えた豪商。現在の建物は1907年(明治40年)に名工・西田伊三郎によって再建された。昭和41年に国の重文指定。隣の日下部民藝館(1879年:明治12年築)と併せて高山の代表的町屋建築として知られる。 徳川幕府時代にあった軒高制限から解除されており、豪壮な木造建築となっている。

講師:八野明(はちの・あきら)先生
1947年高山市生まれ。八野大工社長。高山・祭屋台保存技術協同組合理事長。飛騨地域に限らず日本全国100台あまりの屋台山車や、 数多くの社寺建築の修理建造を手掛けた。

宮大工になった経緯
親が宮大工だった。高校の教員でもあったが、戦傷のため体が不自由で最後は宮大工はやめた。小学生の時から代わりに作品を作っていた。 30歳過ぎてから本格的に宮大工の仕事がくるようになった。

祭り屋台について
屋台の修理は30年以上やっているが特に平成4年〜平成13年に8台の屋台を新造した。(「まつりの森」平成のまつり屋台)。
屋台は木材を組み合わせて作る。釘を使うとその部分がさびてしまうので、原則釘は使わない。従って分解も可能。 おおよそ50年で屋台を修理するのが目安。祭りで年間2日間陽射しを浴びる。50年で100回陽光に曝され、うるしの艶が無くなり、また他の部品も傷んでくる。 その時分解するわけで、宮大工は分解することによって屋台のつくりを十分に研究する時間が持てる。

「御所車・大八車の車輪」 車輪について
(御所車、大八車の車輪の現物を手にしながらの説明)
30年前に屋台の車の修理を依頼された。車輪の専門家を探したが経験者がいなかった。 車輪を分解し、見よう見まねで作り始めたが、以来修理品の返品はない。京都の直径2m50cmの大きな車の修繕も請け負った。 車輪の横車には粘りがあり、弾力性に富むミズメを使う。中心周りはケヤキやカシノキを使う。 飛騨の屋台の車輪には「戻し車」という工夫があり、角を曲がるとき「戻し車」を下ろし、前輪を上げ、三輪にして屋台を回転させる事ができる。

宮大工について
宮大工についていうと、江戸時代に色々なノウハウ本も出ており、今は「一子相伝」的な要素も薄く、うまく養成すれば大丈夫だが、全般的な環境はなかなか厳しくなってきている。大きい木材や良質の木材が入手困難になってきており、素材の手当がネックになりつつある。
「負けん気」は大事。職人を見ていると「カンナ削りで終わる人」、「墨を付けてモノつくりまで手掛け、現場の棟梁まで行く人」、「そこに自分のデザインを加え、親方になる人」にわかれる。あとの二者は数が少ない。「同僚、先輩には負けたくない」と精進する人が勝ち残る。

最近の動き
飛騨ではいろんな木材がとれた。ヒノキ、松、杉、栗、ヒメコマツ、ナラ、ブナなど種類も多く、量も多く他地域ではめったに出ない材木もあり、いろいろなものを作るのに飛騨の匠の感性を磨く事ができた。 ただ最近では安価な輸入木材の影響で木材価格が低下し、林業が成り立たなくなっており、森の手入れも疎かになってきている。 一方町の大工さんは「プレ・カット」する住宅メーカーの下請けの「組立工」となっている。ノミやカンナは捨て、もう後戻りが効かない。 昔は屋台を修理できる大工さんも居たのだが。

吉島忠男先生(吉島家7代目当主)
建物をメンテナンスする上での苦労話があったが、「この建物が奏でる音楽をぜひ聴きとって欲しい」とのメッセージだった。(吉島氏は学生時代建築を専攻され、丹下健三事務所に在籍されていたこともある)

「釘を使わない木材の組み合わせ」 建物は木材を組み合わせて作ってある。釘は使っていない。素材の強みをうまく生かして建物を建てている。 垂直の柱はひのき(圧縮に強い)、横の梁は赤松(引っ張りに強い)が使われている。大黒柱を貫通している梁は赤松が二本使われている。 二本の木の接合には穴をあけてホゾを作って差し込む。 (伝統的工法で用いられるホゾを使う「継ぎ手・仕口」については、模型を使って、八野講師から別途、詳しい説明があった)


(大沼 俊朗)


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