比叡山延暦寺(東塔)

比叡山延暦寺は日本天台宗の本山寺院。500万坪(1650ha)の山内は東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)に大別され、延暦寺とはこの中の150あまりの堂塔の総称だ。 京都駅から山科、比叡山ドライブウェイを通って延暦寺東塔駐車場に到着すると目に入るのが「登叡成佛」と書かれた石碑である。開山した最澄の直筆が四国の石に刻まれたもので、「比叡山に一歩踏み入れただけで成仏に一歩近づきますよ」という意味だ。

大講堂までの道には左に最澄の生い立ち、右に比叡山延暦寺が輩出した僧侶達の絵と解説がある。円珍、慈円、源信、法然、親鸞、一遍、道元、日蓮など有名な僧たちも比叡山で学び修行した。

「大講堂」 【大講堂】(重文)
延暦寺はよく仏教の母山的な役割を果たしたといわれるが、その学問修行の場が大講堂である。信長の焼き討ち(1571)後、1642年に復興されたが、1956年の火災で焼失した。現在のお堂は1964年に山麓坂本にあった讃仏堂を移築したもの。中にはご本尊の胎蔵界大日如来、向かって右に弥勒菩薩、左に十一面観音。お堂の左側には聖徳太子と伝教大師最澄の像、右側には桓武天皇、天台智者大師(中国で天台宗を開いた高祖)の像がある。

【鐘楼】
大講堂の近くにある重さ4.5t、直径2mの鐘。一昨年末にゆく年くる年でこの鐘楼が撮影された。もともと陣中火災の合図として使われた半鐘だが、現在は平和の鐘という象徴的な役割を果たす。

「根本中堂への道」 【根本中堂】
東塔の根本中堂は延暦寺の総本堂であり、ご本尊は最澄作の薬師如来。788年に一乗止観院として最澄が創建した後、何度も火災にあっている。復興の度に規模が大きくなった。1571年に焼き討ちに遭い、堂塔はことごとく炎上した。現在の姿は徳川家光公の命により、8年の歳月をかけて1641年に完成したもの。建物は国宝、廻廊は国重要文化財。
「不滅の法灯」は焼き討ちの際には分灯され、山形県の立石寺で灯し続けられていた。それを元の根本中堂へ再分灯されたので、この法灯は1220年以上の時を経てもなお灯し続けられている。3つの法灯は過去、現在、未来を表す。燃料にはなたね油が使われているが、油が断ったら大変→油断大敵の語源ともいわれる。
「比叡山山頂のお地蔵さん」 堂内は外陣、中陣、内陣に分かれていて参拝者は中陣から3mほど低い石敷きの床の内陣を望む。その奥に須弥壇があり、本尊の薬師如来(秘仏)と日光・月光の脇侍(ぎょうじ)、十二神将、祖師像などが安置されている。他のお寺では本尊を仰ぎ見ることが多いが、ここではご本尊が参拝者の眼の高さにくるようになっている。これは仏も人もひとつという仏教の「仏凡一如(いちにょ)」の思想を表したものである。ここでは毎朝6時半よりお勤めが行われ、世界平和、日本平和のため、また災害に遭った国や地域の復興の祈願をされている。
(根本中堂は今年から約10年かけて平成の大改修が行われる予定。工事が始まると外観を見ることはできなくなるが、お堂の中には入ることができる。)

「平和の祈り記碑」 【宗教サミット】
東塔のエリアに宗教サミットの開始年1987年に記念の石碑が建てられた。世界の宗教家らが毎年8月3日に京都国際会議場で会議、4日に比叡山に集い、6日に広島を訪れて平和記念式典に参加し黙祷を捧げる。今年で29年目。この石碑の裏側には参加宗教が刻まれている。仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、シーク教、儒教、神道。昨年は約7000人が比叡山延暦寺を訪れた。

「御廟前灯篭」 【延暦寺会館】
売店、トイレ、カフェがあり、昼食、宿泊、座禅体験ができる。

午後は西塔の浄土院、椿堂、にない堂、釈迦堂を歩き、横川中堂まで訪れた。

*延暦寺界隈の桜のシーズンは京都より1か月近く遅く、4月下旬から5月初めのゴールデンウィークあたり、紅葉は10月が見頃で11月20日前後に初雪が降るそうだ。

{参考文献:図解 比叡山のすべて 別冊宝島}         


(石田 美樹)


もどる


トップページ

Copyright(C)2001 JFG All Rights Reserved.