重要文化財の冷泉邸は通常非公開ですが、今回は JFG 会員の紹介で見学することができました。
公家町と冷泉家の変遷
京都御苑にかけての一帯には築地塀(柱を立て、板を芯にして泥で塗り固め、瓦で屋根を葺いた塀)を連ねた公家屋敷がありました。
豊臣秀吉の都市政策により、それまで市中に散在する町家と入り混じっていた公家屋敷を、御苑周辺に集中させて公家町が形成され
たからです。
藤原定家の孫、為相(ためすけ)を祖とし「和歌の家」として 800 年の歴史をもつ冷泉家がこの地に屋敷をもったのは、 1609 年 9 代為満の時
です。明治時代にほとんどの公家が東京に移り住んだり、屋敷が取り壊されたりしましたが、冷泉家だけが留守番役として京都に残
りました。ほぼ完全な姿で保存されていて、近世公家住宅の唯一の遺構となっています。
解体修理工事が平成 6 年に始まり平成 12 年末に終わって、重要文化財指定建造物として瀟洒な姿をみせています。当主は 25 代為
人で、750 坪の敷地をもち、同志社大学と隣接しています。現在も歌会が古式にのっとり行なわれています。
冷泉邸
表門
特に注目されるのは屋根両すみの留蓋瓦(とめぶたがわら)として立つ阿、吽を対にした亀像瓦です。冷泉家が御所の北にあることから、玄武神の亀蛇に
基づいたものと思われます。
屋根
旧態に復元され、柿葺き(ヒノキ、マキなどの薄板で屋根を葺くこと)となっています。
立蔀(たてじとみ)(格子の裏に板を張り、屋外において目隠し、日よけ、風よけとしたもの)
奥の玄関への目隠しとして建てられました。細かな蔀を組みこんだ障塀は公家屋敷の特色です。
式台
乗り物として牛車や輿が使われていた中世以前は、御輿寄が設けられ乗り降りしていました。近世ではかごが多用され、低い位置から
乗りこめるようにした板敷きの式台となっています。
前庭
式台の前庭は格式に応じた送迎の場で、取次送迎などが事細かに定まっていた儀式的な庭です。前庭には、橘の木と紅梅の木が植えら
れています。東が桜でなく梅なのは、まだ国風化する前の中国の古制によるものです。
座敷
使者の間、中の間、上の間と一列に並び、書院造りを基調としています。欄間は素通しで、襖を取り外した時全体を一室化しやすいよ
うになっています。上の間と中の間との境の敷居は取り外しができ、畳をあげて板敷きの寝殿とすることも考えられていました。襖に
は黄土色の地紙に雲母で型押しした牡丹唐草の唐紙が貼られています。これは歌壇の中心的地位にある冷泉家では、室内から季節性を
排除し想念にふけることができるようにと考えてのことでした。
台所
西にある台所棟は家司が詰め、家族は決して立ち入ることがありませんでした。座敷棟からは床も一段低く張られていて格式の違いが
明らかです。土間と板敷きから成り、「しゃぐま」というわら束が吊り下げられています。「しゃぐま」は祇園祭りの長刀鉾(なぎなたぼこ)
に使われ
たもので魔よけとして飾るようになりました。
御文庫
冷泉家に伝わる俊成以来の貴重な古文書を収めています。 1767 年に新文庫が建て増しされました。天明の大火( 1788 年)の際にも
類焼を免れています。
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