寒風吹きすさび、時折雪もちらつく2月7日、名古屋市緑区有松にて研修が行われました。午前は歴史ある竹田嘉兵衛商店の邸宅で会長からお話を伺い、その後町歩きをしました。有松は東海道の宿場町のひとつですが、自然発生した宿場町ではなく、東海道沿いの治安維持のために尾張徳川家が作ったものです。しかし、もともとあまり農業に適した土地ではなかったため経済的に苦しく、免税措置を受けたり、また移住元が家康の生母の出身地でもあったことから、現金収入を得るための絞り製品の販売を始めるに当たり、独占製造する保護を受けたとのことです。
隣の鳴海の方が宿場として有名であり、鳴海での販売量が大きかったことから、商品の「有松・鳴海絞り」という呼称につながりました。1992年に開催された第1回絞り国際会議において、絞り染めには所謂染色だけでなく形状記憶も含まれることが確認され、絞りの英語の正式呼称はshiboriとなりました。
400年に渡る職人の歴史を持つ場所であることはその町並みからも感じ取ることができます。曰く、独占産業であったがために、古くから商談や染め場の見学などで来訪者が多く、それらの顧客を接待する文化に由来する茶室や奥座敷をもつ建築様式、そして建物の表側である店舗においては、商品への日焼けの影響も考慮して設計されているという街づくりがなされています。残念ながら現在では商売替えをされたお宅も多いようですが、街並みとしてはまだまだ昔の風情を感じさせます。地元でも、3年前に電柱の地中化を果たすなど、景観保護への意識は高いようです。その一方で大きな道路が町を分断していたり、時代の波に押されている部分もあるようです。
自由昼食をはさんで、午後は有松・鳴海絞会館から再開です。代表的な絞り技法の展示と、毎日2名ずつの糸くくり職人さんの実演があり、1階は産直の絞りショップとなっています。かのケネディ駐日大使も帰国前に買い物にいらっしゃったそうです。事前予約で絞り染め体験も可能です。明治に入り絞り染めの独占体制も崩れましたが、何より大きな打撃は生活様式の変化でキモノを着る人、着る機会がどんどん減っていったことでした。消費側の変化だけではなく、日本人の生活システムの変化は職人の確保も難しくさせていきました。分業を担う職人仕事は、既に親から子へと受け継ぐ家業ではなくなり、外部からのやる気のある若者に技術伝承を試みるシステムになっています。
最後に訪問したのは 久野染工場です。町並みからは想像できない有松のもう一つの顔が、世界的なデザイナーや舞台役者など、トップクラスのアーティストや企業への技術提供です。職人と言うのは「そもそもが技術屋」とおっしゃる久野染工場4代目。ちょっと考えてみれば不思議なことではないのですが、いかんせん裏方であるがために一般消費者が気付くことができない事実でもあります。
その背景には合成繊維や合成染料の存在も無視できません。ポリエステルを熱加圧成形することで得られる形状記憶(= プリーツ加工)によるファッションは、市場に登場した時は大きなセンセーションでした。そして今日ではさらに素材と技法のコンビネーションが無限に作品の幅を広げ続けており、服飾デザイナーだけでなく、歌舞伎、舞台衣装や世界のトップ企業のディスプレイ、インテリア等にも活用され続けています。久野氏はこの3月には中東への技術指導にも行かれるそうです。そこにあるのは生き残りのための挑戦と言うよりは、職人として新たな素材や技術を利用し、日々前に進んできた結果でしかないように感じます。生活の変化に翻弄され先細りする伝統工芸の維持に腐心するだけでなく、400年の技術と経験を基に21世紀の職人として前を向いている気負いのなさを感じました。これは街歩きをして伝統工芸の絞りだけを考えていると、決して見えては来ない一面でした。
最後に各自が“雪花絞り”染め体験をしました。木綿の白いてぬぐいを三角形に蛇腹折にして生地の準備をしますが、既にこの段階で各自の個性が反映されていました。工場の方のお手伝いで仕上がった手ぬぐいは各人各様でした。
名古屋から名鉄電車で20分余り、有松は伝統工芸や古い町並みだけではなく、世界的なデザイナーとコラボレーションできる現代の職人魂の息づく街でした。
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