水戸偕楽園研修会レポート

地元ガイドの説明を聞く研修生  梅まつり真っ盛りの3月8日に水戸偕楽園で2007年度第三回の研修会を実施。 個性的な市民観光ボランティアの方々に園内を隅々まで案内していただき、水戸の気風についても多いに学ぶことのできた一日であった。

日本三名園のひとつ
 水戸偕楽園は水戸第9代藩主徳川斉昭により、1842年、衆と偕(とも)に楽しむという趣旨で領民の休養の場所として創設された。 金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに、日本三名園として有名。

岡山の後楽園、金沢の兼六園との違い
 偕楽園は入園料、ガイド料ともに無料。 後楽園、兼六園は殿様の私的な庭園で、招待されたお客様のみが入園できたが、ここ偕楽園は庶民が入れた。 他の庭園は池を人工的に掘り、中ノ島を作ったりするが、偕楽園は仙波湖を景観に取り入れ、人工の池はない。

仙えき台からの眺め 仙奕台(せんえきだい)
 見晴らしが最も良い場所。この辺りは風致地区に指定されており、電信柱がなく見晴らしが良い。 偕楽園の総面積は129,531m2だが、周囲3km余りの千波湖を含むこの一帯約300ヘクタールを偕楽園公園とし、規模としては日本一となる。


 園内にある梅は現在約100種、3000本。斉昭は当初、1万本の梅を植えるよう命じた。 「梅」を選んだのは、観賞としてだけでなく、戦の際の非常食とする理由があった。 おにぎり用に梅干が1食に3個、1日9個、2千人が2ヶ月食べられるだけの梅を水戸に植えようとしたが、実際は園内に6000本植えられた。 梅の寿命は短く、当時のものは200本のみ残っている。

偕楽園記の碑
 偕楽園創設の趣旨が記された碑。 「この公園は自分ひとりのものではなく、領内の人々が学問や武芸を学んだ後で余暇を利用して休息し、心身を養うところである」。 弘道館で文武修行したあと、休息する場として偕楽園は作られたが、その代わり掟もあった。 「男女は一緒に入ってはいけない(7歳以下を除く)、酔って暴れたり騒いだりしてはいけない。」など、 入園の心得が碑の裏側に刻されている。

好文亭
 斉昭の別荘。ここも己ひとりではなく、衆と偕(とも)に楽しむところだった。 斉昭は3階の「楽寿楼」より眺望を楽しみ、文人墨客や家臣、さらに領内の老人らを集め、詩歌や慰労会を催した。 また水戸城の防備の弱点とされる西側の展望の良いところに位置していることで、水戸城の出城・物見櫓として使われたとも言われる。 名前は中国故事から梅を意味する「好文」を使って命名した。
・待合
 水戸城から船でやってきたお客様が、坂を上がり、この待合で茶室に招かれるのを待った。 壁の板額には「お茶室では技法は未熟でつたなくとも、礼の心を体し誠を込めて学びおこなうものの方が尊敬されるべき」と記されている。
・茶室入り口
 ニジリ口ではなく、織部口で、高烏帽子を身につけたまま茶室に入れるよう、通常よりも大きい入り口になっている。
・楽寿楼(3階)への階段
楽寿楼から千波湖を眺める  3階の楽寿楼へあがる際、急な狭い階段を上る。上に「侍の控え所」があり、1人でも敵から守ることができるようになっていた。
・奇数へのこだわり
 斉昭は奇数を吉とし、そのこだわりが見られる。部屋の畳の数は奇数、狭く急な階段は11段、3階の楽寿楼にある床柱の竹の節目も11ある。 漢字「武士」の画数にちなんで11という説も。
・楽寿楼
 3階は「楽寿楼」と呼ばれる部屋。三方見晴らしがよく作られている。 雨戸は景観を損ねないよう、角で90度回転し、くるっとまわして一箇所に集めて収納される。


(山根美貴子)

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