臼杵石仏

 湯の街別府から大分高速道を40分程車を進めると、臼杵石仏へ到着する。国宝4群59体の磨崖仏である。 平安後期から室町初期にかけて彫られたと伝えられるが、正確な年代・作者等は歴史の彼方の謎である。

 石仏は4群に分かれており、人の一生を表すと言われる。通常は動線に従い、 「ホキ石仏第2群(極楽浄土)」→「ホキ石仏第1群(壮年期・青年期)」→「山王山石仏(幼年期)」→「古園石仏」という拝観ルートをとる。

 「まず初めに極楽浄土へご案内します」と、お客様を「ホキ石仏第2群」の九品の阿弥陀さまへお連れする。 臼杵石仏は全て磨崖仏である。完璧な仏様のお姿なので一見そうと分かりにくい。 お客さまに仏像の後ろまでよく見ていただくと、「これが岩壁に彫刻されているのか?!」という感想をもらされる方が多い。

 次の阿弥陀三尊像は老年期の人間を表す。お顔は静かな心でお迎えを待つ老人の毅然とした悟りを表すといわれている。 静かな雰囲気に思わず神妙に手をあわせ、中には線香をお供えする方もいらっしゃる。 ご自分の宗教とは違うであろうに、頭をたれ静かに合掌する姿にガイドも思わず手を合わせることがある。

 急な階段を登り、青年期・壮年期の仏様である「ホキ石仏第1群」にたどり着く。 青年期と壮年期をあらわす仏像の間に、結婚の仲立ちをするキューピッド役の愛染明王のお姿がある。
 その横はさしずめ「地獄の法廷」であろうか。 地獄にあって死者を裁く裁判官、十王像を左右に5対ずつ従えた地蔵菩薩さまがいらっしゃる。 「裁判官がいるなら、弁護人は?」とは、お客様の質問。 「いえいえ、地獄には弁護人はおりません。浄玻璃(じょうはり)の鏡に映された生前の言動を自分で擁護しなくてはなりません」 「仏教徒じゃなくてよかった!」
山王山石仏
 次の「山王山石仏」は子供時代である。真ん中に童形相の釈迦如来、右に薬師如来、左に阿弥陀如来を従えている。 童形相の釈迦如来は日本中ここだけとか。階段がとても急なので “Watch your step!”


 ハイライトの古園石仏への道中、阿蘇山溶結凝灰岩がむき出しになっている。九州は太古、北と南の2つに分かれていた。 阿蘇山が海底から噴火し、九州は1つの島になった。その噴火口が大カルデラを形成し、周囲は128 kmに及ぶ。 36万年前〜7万年前までの間、4期の噴火活動があったといわれるが、その間、九州全土は溶岩に覆われた。 その溶岩に臼杵石仏は刻まれている。通常、九州のツアーには阿蘇山が含まれるので、 「あの阿蘇山の溶岩なのか!」と感慨深げにその岩肌をなでるお客さまもいらっしゃる。

大日如来像  最後の「古園石仏」はご本尊が大日如来である。阿蘇山溶結凝灰岩は柔らかく、彫刻には適しているが、地下水にも溶けやすい。 この大日様の頭部は、平成5年に復位されるまで、落下したままであった。 落下したままのお姿が親しまれていたため、復元するか否か大論争があったが、復位された後は、「首がつながる」とのことで、 「就職」また「良縁」等のご利益がある、と言われるようになった。 願い事を書く用紙が置かれており、外国からのお客様も何事か熱心に書き、お賽銭をあげる方が多い。

 石仏の鎮座まします深田の里から、車で10分ほどで臼杵中心部に着く。 ここは戦国時代、九州の約半分を治めたキリシタン大名、大友宗麟が城を構えた城下町である。 また、後に徳川家康の外交顧問として活躍したウイリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンの乗ったリーフデ号が漂着したのも 臼杵沖の黒島である。市内には、野上弥生子文学記念館、二王座武家屋敷、稲葉家下屋敷等、散策には事欠かないスポットがある。 また、臼杵といえば忘れてならないのが、ふぐ料理である。ひれ酒をちびちびとやりながら味わうふぐ料理は絶品である。 是非一度、臼杵に来んかえ!!


(何松美加)

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