「必要は変身の母」
通訳ガイドの免許を取ってから丸4年、実際にガイドの仕事を始めてから2年半、ガイドとしての実績はまだまだ十分とはいえないが、 そろそろ自分を新人ガイドと言うのは気が引ける時期になりました。先日、ある旅行会社の担当の方とお話しする機会があり、「ガイドの仕事はどうですか」と聞かれ、次の様に答えました。「私はこれまで仕事というものは楽しくないものとばっかり思ってきましたが、楽しい仕事もあるのですね」。担当の方は笑っていましたが、これがガイドをしている今の私の率直な感想です。よくここまでやってこられたとも思っています。私は生来、人一倍恥ずかしがり屋でした。寡黙は美徳、人前で喋る機会は少なければ少ないほどいいと思って暮らしてきました。そうやって60余年を過ごしてきました。でもガイドになった今、自分は変身したと思っています。「必要は変身の母」でもあります。昔の私を知っている人は私の変身ぶりに驚いていることでしょう。でも一番驚いているのは本人自身です。
ガイドの登録をしてから1年半はまったく鳴かず飛ばずで過ぎました。もちろん旅行会社をまわって自分をセールスしましたが反応はありませんでした。私の通訳ガイドデビューは突然やってきました。横浜に寄港したクルーズのお客様の東京1日観光がそれでした。秋の観光シーズン真最中でよほどガイドが足りなかったのでしょう。ツアーの間際になって私に声がかかりました。今から思うと冷汗ものですが、何とかこなしたという感じでした。横浜の大桟橋から1時間かけて東京へ行き、都内観光を終えてからも、横浜までまだ1時間もあります。 前の席に座った老婦人は、”Now, it’s your time”といって目を輝かせて私を見つめます。心中、何でこんな難しいガイドの仕事を引き受けたのかと後悔の念が湧いてきました。バスから見える風景をたどたどしくガイドしていると、私がうろ覚えなのを察したのか、バスドライバーは何回となく事前にそっと私に教えてくれました。ですから私は今でも、バスドライバーは頼りになる存在だと思って仕事をしています。最初の仕事でいいバスドライバーに巡り合えたと今でも感謝しています。
このような経験を何回か、何十回か繰り返して、ガイドの仕事の基本についていくつか私なりの信念が出来ました。その一つは、「噺家と同様、ガイドはしゃべってなんぼの世界」であり、話の内容はお客様が評価する。だからとにかくうまくしゃべらないといけないということ。二つ目はお客様に最高の満足をしていただくために全力を尽くすこと。クルーズの仕事は横浜だけでなく九州や沖縄まで広がって今でも仕事をいただいていますが、これが私の通訳ガイドとしての仕事の原点です。
今では、クルーズの仕事の外に、いろいろな地域や国からお客様を迎え、様々なタイプの仕事を受けるようになりました。仕事の数が多くなれば、ハプニングも当然多く起こります。そんな時、ガイドは臨機応変で柔軟性がなければだめだなと痛感します。昨秋のある日曜日、イスラエル人の団体を紅葉シーズンたけなわの日光へご案内しました。雑踏の東照宮を見学し、各自昼食を終えて、さあ、これからいろは坂へ向かおうという時に急病人が出てしまいました。やっと急患を診てくれる救急病院が今市にあるのを探し出し、バスの方向を変えて今市に向かいました。病院に着くや否や、車椅子を借りてお客様を乗せ、玄関前のスロープを押して登りました。ガイドには力仕事が必要な時もあるのだと実感しました。医者の手当てを受け、お客様の容態が安定したのを見届け、病院にお断りして、残ったお客様を連れてバスで再び中禅寺湖、華厳の滝へ向かいました。景色と紅葉を存分に観賞してから病院に戻り、回復したお客様と合流して東京のホテルへと向かいました。こういうことがあった後では、お客様とガイドの気持ちが一つにつながります。
ガイドの仕事をしていると、お客様と相対で話をする機会がよくあります。そんな時、聞かれるのは「何年ガイドをしているか」、「前は何をしていたか」とか直接年齢を聞いてくるお客様もいます。最初の頃は、そんな質問を受けるのが苦手でした。自分のガイドが未熟だからそんな質問を受けるのだと思ってしまうのです。今は違います。質問が来れば、そこを会話の糸口にして、もっと自分に関心を持って知ってもらおうとします。そうすれば、ガイディングの話も熱心に聴いてくれるからです。
ツアーの終わりに、お客様から感謝の言葉を受ける時、ガイドをしてよかったと思います。仕事で出かけた先や研修の時など、ガイド仲間と語り合うのも楽しいひと時です。自分が好きな歴史や日本文化の勉強が存分に出来るのも至福の時です。
今、私には小さな夢があります。箱根を越えて、長期のガイドの仕事をすることです。しかし、箱根の関所は私にとってなかなか難所であることを痛感しています。
(井ノ口久利)