生糸と碓氷製糸農業協同組合
今日、わが国から自動車、ハイテク関連製品が中心となって輸出されているが、戦後は繊維、造船、鉄鋼、カラーテレビ、家電製品など、輸出においてその主役が年代とともに代わってきた。しかし80年以上の長期にわたって輸出第一位に君臨した品目が生糸であった。生糸輸出がなければ日本の近代化はなかったと言っても過言ではない。今回の研修では富岡製糸場、碓氷製糸農業協同組合、桐生織物工場を訪ねた。
群馬県安中市松井田町にある碓氷製糸農業協同組合は、現在日本で器械製糸工場として操業している2工場のうちの一つであり、碓氷・安中地域の農家が出資して経営している。元々民間企業による工場であったが廃業となり、松井町の町長はじめ議員らが養蚕製糸の存続のため資金を出し設立(1959年)の後押しをした。群馬県は当初から養蚕の盛んなところで長野県とともに二大産地を形成してきた。現在の製糸工場は戦後に設立されたもので、戦前生糸業界が隆盛を誇っていたころに存在していたわけではない。
日本の生糸の最大の購入者であったアメリカでは、戦後ナイロン製品が急速に普及し生糸を席捲し、日本からの生糸輸出は期待できなくなっていた。「タオル・化粧品など」そのころ日本では高級着物用の生糸の需要が高まり、1981(昭和56)年ごろ、消費者の嗜好がカジュアル着物へと移り変わっていくまで、生産はかなり復活した。また、輸出用として付加価値を施したスカーフなどの完成品がヨーロッパで評判を取り注文に結びついたが、この需要は長期には及ばなかった。
現在生糸生産国は工賃が有利な中国、インド、ブラジルへと移行しており、これら3国で全輸出量の9割を超える。このような状況下日本での生糸生産は大変厳しいものと言わざるを得ないが、現状を打破すべく、生糸の使用用途を服飾関連に限らず化粧品、シャンプー、リンス、食用ゼリー、うどん、ケーキ、医療用縫合糸、シーツ、楽器弦などへと広げている。
● 蚕の一生:
- 卵→毛蚕→1齢(一眠)→2齢(二眠)→3齢(三眠)→4齢(四眠)→5齢→熟蚕→蛹→蛾(成虫)
- 1齢から4齢の間4回脱皮を繰り返し、5齢で繭を作れる状態となる。そして熟蚕において2日間休みなしに頭を“8”の字に振り糸を吐いて繭を作る。その後繭の中で最後の脱皮をし、蛹となる。蛹は2週間ぐらいで蛾になり繭から出てくる。蚕は桑の葉を食べて成長するが、近年は人工飼料も入手でき、桑の粉末に大豆粉末、アミノ酸混合物などが加えられている。蛾は口が退化しており何も食べられなく、交尾後1週間ほどで死んでしまう。その間メスは500個ほどの卵を産む。
● 製糸工程:
- 乾燥→保管→選繭→煮繭→繰り糸→揚返し→仕上げ
- 養蚕農家から製糸場へ送られてきた繭(蛹が入っている状態)を先ず乾燥させ、中の蛹を殺す。(殺された蛹は魚の餌、肥料、油などに利用する。)保管、選繭された繭を煮て糸口を出し、数個の繭よりほぐれた糸を抱き合わせて1本の糸とする。一般に21デニールの太さに調整する。(3デニール/繭1個x 7個)器械で巻き取り束ねやすくし一定の長さに整えた生糸を束ねて出荷する。
● 繭糸は2本のフィブロインとそれを覆うセリシンという2種類のたんぱく質によりできている。セリシンはフィブロインの周りを囲んで糊の役目をしているが、繭を湯の中で煮てセリシンを取り除くと独特の風合いと光沢を持つ絹糸(練り糸)が得られる。生糸はセリシンが残っている状態でごわごわしているが、絹糸はセリシンが取り除かれスムーズな感触を持つ。また繭糸全てが生糸として取り扱われるのではなく、蚕が最初に吐く糸=生皮荢(きびそ)、最後に吐く糸=比須(びす)はくず糸として取り扱われ、それ以外の中間部分を生糸とする。
今回の訪問の目的の一つは戦前の製糸工場の雰囲気を垣間見ることであり、このことは十分達成された。工場内で働いている方々には失礼になるかもしれないが、生糸産業は歴史そのものであり、 日本においてその歴史的使命を終えたとの印象を今回の工場見学で強く懐いた。 比較優位な国へ生産が移行していくことは経済の法則からして当然のことなのであろう。
(井上 健夫)