大阪城の魅力
【講 師】 渡辺 武先生(元大阪城天守閣館長)
〈日本人がよく陥る2つの混同〉
大阪城がみえた!というとき、天守閣のことをいっていることがある。お城とはどの部分をさすのか。お城とは堀、石垣、塀、櫓その他のあらゆるものをまとめた呼び名で、天守閣もそこに含まれている。その天守閣という呼び名も幕末、明治頃から使われるようになったもので、金閣や銀閣などの楼閣建築が発展して天守閣になったとされている。テンシュと一言でいっても、その表記は「天守」「天主」「殿守」と様々である。例えば大阪城は「天守」と表記し、安土城は「天主」とした。では、その天とは何を表すのか。キリスト教との関わりと思う人もいるが、天というのは「全世界を動かすもの」という中国古来の哲学思想からきているとも考えられる。
現在の天守閣は最も長命であり、そこに意味があると考える。初代、夏の陣で失われた天守閣は32年、再建された徳川時代の天守閣は39年で落雷により焼失し以後再建されなかった。1931年鉄筋コンクリートの天守閣が再建され、これが3代目となる。
この天守閣が2011年、満80年を迎えた。まがいものと言う人もいたが、登録有形文化財に登録されている。50年以上たった近現代建造物で、歴史的、学術的価値が高いことが理由。
大阪城と天守閣を混同しがちだが、大阪城を再建したのが徳川家康だという勘違いもある。家康は再建には関わっておらず、2代秀忠の命によりはじまり3代家光の頃に完成する。破壊されたのは建物だけで、石垣や堀などは豊臣時代のものだと信じられていたが、後の調査で石垣の刻印は関ヶ原の戦い後に徳川に仕えた大名の刻印ばかりであり、大阪城が徳川時代に土台から築き直されたものであり、豊臣時代の石垣は地中に埋まっていることがわかった。
大阪城の歴史を語るには秀吉の城の前身となった本願寺がどんなものであったか、秀吉時代に大阪城が果たした役割、家康時代に果たした役割、そして明治以降どうなっていったかを正しく理解することが必要である。
〈天守閣展示品外国語解説をめぐるいくつかのエピソード〉
EU代表が大阪城を訪問した際、案内の中で天守閣をDonjon と言ったところ、地下牢を見せてくれと言われた。Donjonは塔の地階に土牢を造るケースが多かったことから、Dungeon(土牢)という派生語を生じたと言われている。Keepは土牢や要塞として使われる堅固な中央の塔である居住空間をはじめ、篭城戦に備えた武器庫、食糧庫としても使われた場所である。Keepは中世においてフランスではドンジョンと呼ばれていた。しかし天守閣は、日本固有の様式の主塔で土牢としては使われなかったのでDonjonという言葉はふさわしくない。城を語るうえで用語選びは非常に難しく、また歴史を正しく理解していなければ適切な用語を選べない。現在、天守閣を表す言葉はmain tower を使う場合が多い。
(岡田 万里子)