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益子焼

今年開窯 150 周年を迎えた「益子焼」の研修に参加した。
益子焼の始まりは、江戸時代末期、茨城県の笠間で修行した大塚啓三郎が、この地の良質の粘土と窯焚きの薪となる赤松の群生に着目して、1853年に窯を開いたことに端を発した。大正末期になって、濱田庄司( 1955 年人間国宝指定、1894 – 1978 )が、この地に居を定め、民芸運動の考え方をベースに、益子焼を大きく発展させた。

益子参考館

益子参考館
濱田庄司氏の旧邸に、氏自らが参考にした品々が展示されている。
濱田映子副館長(濱田庄司氏の次男晋作氏夫人)から、濱田庄司の生い立ち、工芸の道に入った動機、益子に住み始めた頃の様子、そして益子焼の発展について、興味深い説明を受けた。
濱田庄司は、東京高等工業学校(現東京工業大学)の窯業科を卒業後、京都市立陶磁器試験場で釉薬(うわぐすり)の研究にはげみ、そこで知り合ったイギリス人陶芸家バーナード・リーチと渡英、築窯して作陶活動に入った。帰国後、益子に定住し、大正末期、柳宗悦を中心に進められた民芸運動の考え方をやきものにも導入し、「民衆工芸のなかにこそ生活の用に即した美がある」という理念に沿って作陶を始め、新しい技法を取り入れた。庄司はたびたび沖縄を訪れ、壺屋焼の窯で伝統技法とヤチムン(沖縄の言葉でやきものの意)の精神を学んだ。こうして濱田庄司は、近代益子焼の育ての親として見事にこれを開花させたのである。まさに、本人が次のように書き残した通りの道程であった。
「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った。」

窯元つかもと 登り窯

窯元つかもと工場見学
益子最大の窯元であり、かの有名な信越本線横川駅の「峠の釜めし」の弁当容器の製造元でもある「窯元つかもと」を訪問し、益子焼製造工場を見学、製造工程について説明を受けた。
工場に隣接して「作家館」があり、益子在住の作陶家の作品が展示・販売されている。益子が生んだ二人の人間国宝、濱田庄司と島岡達三 ( 1996 年指定、1919 ~ )の作品も展示されており、身近に鑑賞することができる。

濱田庄司が取り入れた技術が生かされている作品

益子参考館
メッセ(見本市)の目玉・陶芸館には、力強さみなぎる濱田庄司の作品をはじめとして、佐久間藤太郎、島岡達三、村田元、木村一郎など門下生の力作が並ぶ。益子焼といえば、「つやのあるなめらかな肌で厚手の器」というぼんやりした画一的なイメージしかもっていなかったが、よく見るとなかなか変化に富んでおり、自由な作風を感じる。益子焼の魅力は、素朴さのなかにモダンさがあるといわれる通りである。そこには、濱田庄司が取り入れた「柿釉(かきゆう)」(くすんだ赤色の釉薬、益子特産の芦沼石が原料)や「刷毛目」(器に化粧土を刷毛で塗る施釉の技法)などの技術が見事に生かされている。
陶芸館見学の後、陶芸メッセの敷地内に移築されている茅葺きの「旧濱田庄司邸」と、彼が生前愛用した「登り窯」を見学し、濱田庄司の高い理念と偉大な業績を振り返った。

(真木 正昭)

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