平城遷都1300年に改めて思う奈良時代
天平文化を花咲かせた花の都奈良を“あおによし奈良の京は咲く花のにほふがごとく今さかりなり”と歌にも詠まれた奈良時代。広義には710~794の84年間、狭義では784までの74年間が奈良時代と理解されている。この間奈良遷都をされた43代元明天皇から京都へ京を移された50代桓武天皇まで8代7人の天皇がおられた。
古今東西、後継者選択にあたり醜い争いは常であったのは歴史が物語る。その点聖武天皇は命をかけた皇位争奪戦に巻き込まれることもなく、すんなりと皇位を継承された誠に幸運な天皇であられたのではないだろうか。父君は文武天皇、母は藤原不比等の娘宮子との間にお生まれになった。聖武天皇の幼名、
聖武天皇には光明皇后(二人は甥と叔母の間柄)との間に一男(
聖武天皇にはもう一人の皇子安積親王がおられたのだが何故か藤原家には都合よく17歳で急死する(仲麻呂による毒殺説もあるほど)。このあと史上初の女性皇太子が誕生するが彼女がのちの孝謙天皇であり、称徳天皇である。作家永井路子氏による彼女に対する描写を紹介すると「全くの政治音痴で良家の子女、わがままいっぱいに育ち、明るい。「大極殿」たまたま天皇の地位に座らされ、そこに彼女の不幸な星のめぐり合わせがあった」とのこと。また考謙の道鏡に対する寵愛が高じて道鏡の皇位問題に発展していくのだが瓦版も存在しなかった時代では庶民の耳に届くことはなかったのだろうと思われる。毒殺説もあるが、称徳天皇は道鏡に見守られながら亡くなり、持統天皇が自分の血統(天武皇統)に天皇を継がせたいとの努力は5代後の孝謙天皇で挫折し、天武皇統から天智皇統へバトンタッチ、と同時に以後850余年女帝は立てられなくなった。聖武天皇と光明皇后の娘に生まれ突然女性皇太子に抜擢され、大きな期待を背負わされた彼女も皇位争奪戦の犠牲者の一人であったように思える。
彼女の異母姉、井上内親王は5歳から30歳まで伊勢斎王として神に仕え、30歳で任を解かれたあと天智天皇の孫の白壁王(即位して光仁天皇)の后になられた。息子の
妹の不破内親王は生没不詳。天武天皇の孫にあたる塩焼王の妃になり子女を儲けるが夫や息子の罪(皇位継承問題などの政争に巻き込まれたとも伝えられる)の連座で彼女は内親王の身位を剥奪、京外追放、配流にされて何処で何時亡くなったのか不明という悲しく寂しい生涯を終えておられる。
基皇子が夭折することなく聖武天皇の後継者になっていたら違った奈良時代になっていたであろう。少なくとも三姉妹は全く違った生涯を送ったことは明らかである。当時世界の一大文明国、唐長安を模倣して造られた奈良の都は歌に詠まれたように誇れるものであったに違いない。「せんとくん」また皇位継承争奪戦を歴史上の出来事としてみるとわくわくするほど面白く個人的には奈良時代が大変気に入っている。その一方で争奪戦の犠牲者を思いやる時彼等の無念さはいかばかりかと、井上皇后が竜になったという伝説に共感をおぼえないわけにはいかない。
遷都1300年に当たり多彩な行事が予定されている。そこで犠牲者を鎮魂する行事はないものかと探しみた。しかし残念ながら全くそのような予定はないと聞く。遷都1300年は歴史の重みをひしと感じるお祭りなのだから鎮魂は似合わないのだろうと納得することにした。
参考文献:『天平の三姉妹』遠山美都男著 (中公新書)
:『歴史のヒロインたち』永井路子著(文春文庫)
(中村和子)