姫路城と兵庫県立歴史博物館
先日行われたJFG関西地区の研修会では姫路城を訪れ、シルバーガイドさんに案内をお願いしました。ここにその 一部をご紹介しましょう
化粧櫓
千姫は、徳川秀忠の長女で家康の孫にあたります。7歳のときに豊臣秀頼のところに嫁ぎましたが、大阪夏の陣(1615年)で一人生き残ったあと、忠刻と結婚しここに来て一男一女をもうけました。
化粧櫓は、裏の男山の天満宮に対して亡くなった人を遥拝する際の休憩の場所として使われていました。不運なことに忠刻も結核で早く亡くなったため、ここには10年しかおらず両親のいる江戸に帰ってその後尼になりました。
化粧櫓の下の石碑には、俳句が刻まれていますが、「千姫や、春や昔の夢のあと」と読みます。これは、三行に書かれているのですが、中央から、右、左の順で読むそうです(知らない人は右から順に読む)。
縄張り(全体の配置計画)
輝政は周囲に螺旋状の三重の水濠をめぐらし、内・中・外の3つの濠を構えましたが、現在残っているのは内濠だけです。
本丸天守に至る表の道には、い・ろ・は・にの4門があり、はの門付近で目前に天守閣が見えますが、これから先の縄張りはじつに巧妙で迷路になっています。敵が侵入するのを一歩でも遅くするようにいろいろな工夫がなされています。たとえば、抵抗線が急に途切れている箇所があり、敵はそこへ突撃していくと思われますが、実は先へ行くと断崖で落とし穴になっています。
他に、天守閣へ近づいているのに下り坂になっていて出口かと敵を錯覚させるしくみになっています。
兵庫県立歴史博物館でのQ&A(抜粋)
Q. 二条城や熊本城には、食べられる木が植えられているが、姫路城ではどうでしょう?
A. 木は様々な用途をもっています。燃料、薬、武具(竹=槍や弓矢)になるものや火災よけなど。イチョウなどは、火に強く防火の役目をします。姫路城では、防火のためにタラヨウという常緑樹が植えられています。
Q. 石おとしについて
A. 欧州の城にも攻撃のためのスリットがあり、フランスでは煮えたぎった油を落としていたといわれています。姫路城の石おとしの巾は狭く、果たしてここから石を本当に落としたかは疑わしいところです。敵を攻撃するほどの大きな石は落とせないし、名前は石おとしですが、お湯か汚物といった液体を落としていたのではないでしょうか。反対に、広い開口だと忍びの者もそこから侵入できることになります。
Q. 石垣について
A. 城内にある石垣をよく見ると、石の種類の違いがわかります。チャートは城山の石、黒っぽい安山岩は姫路周辺の石、黄色い凝灰岩は高砂の龍山石。城から離れた場所の石が積まれた石垣は江戸時代の池田氏以降のもの。天守石垣などには龍山石が多用されています。姫路城は、16~17世紀にかけての新旧の 城郭部分が入り混じっているため、石の種別はその指標のひとつとなります。
Q. 姫路城の今後について
A. NHKのプロジェクトXで紹介されたように、昭和大修理の際には建材の調達が非常に困難な問題でした。将来200年先に再び解体修理を行う際、果たして昭和と同じ水準の工事ができるか不安です。文化財の建造物に必要とされる固有の部材や、棟梁をはじめとする熟練の技術者がそのときになっても確保できるかどうか深刻な問題になると思います。
(吉田 淳子)