沖縄を想う
「でいごの花が咲き、風を呼び 嵐がきた」
沖縄を代表する唄になってしまったTHE BOOMの「島唄」の歌詞はこう始まります。
でいごの花は、沖縄の県花。バスガイドさんの胸に飾ってあるかわいらしい赤い花。
この花が咲く頃、(4月から5月) 沖縄の人は気持ちが落ち着かなくなるそうです。
ちょうど、花が咲く頃にアメリカ軍の上陸が始まり、沖縄の人々は次から次へと殺されていきました。
4人に一人がなくなった沖縄。家族のうち、誰かしらが亡くなったそうです。
アメリカ軍の日本上陸をできるだけ延ばす為に 日本軍は沖縄を日本の盾にして、時間を稼ぎました。
沖縄戦の末期は住民や兵士(日本兵)が南へ南へと押しやられ、今平和記念公園がある摩文仁や喜屋武岬は血の海と化しました。
喜屋武岬には680万発、畳2枚に200発の銃弾が打ち込まれたそうです。
畳2枚に200発 ― それはどんなことを意味しているのでしょうか。
いまは「効率よく」ピンポイント攻撃、というのをアメリカ軍は使っているそうですが、畳2枚に200発は死なない ほうが不思議なのです。
わたしは当日のガイドが首里城担当だったため、沖縄在住の素晴らしいガイドさんと前日みなで下見にいきました。
首里城は地下に日本軍の司令壕があった為にアメリカ軍の猛攻撃を受け、跡形もない悲惨な場所になってしまいました。
かつて、首里城は日本の国宝であり、「日本の京都、奈良、日光、そして沖縄の首里城」と詠われるほど美しいところだったそうです。
首里城に入る入り口で沖縄のガイドさんは言いました。
「守礼の邦」 ― (守礼門の入り口にある言葉)
「これはかつての沖縄の繁栄を表しているんですよ。 今は沖縄は日本で一番貧しい県です。でも、500年前は世界でも屈指の豊かな国だったんです。」
14世紀から16世紀、沖縄は仲介貿易で栄えました。中国、韓国、日本、東南アジア、そして遠くヨーロッパの国々に 至るまで、貿易をして豊かな国となっていたのです。
中国の準従属国として栄えた琉球は、その豊かさに目をつけられ、薩摩から攻撃を受けました。武器を持たない国民は あっという間に負け、薩摩の従属国としての立場を強いられたのでした。
その後、明治維新には日本国の中に強制的に組み入れられ、第二次世界大戦では日本の盾として陸上戦が唯一行われる場所となったのです。
首里城で、一箇所だけ生き残って存在しつづけたものがあります。
龍樋(りゅうひ)とよばれる、龍の顔をした湧き水の導管。
かつて中国からの使い 冊封使(さっぷうし)に届けられた美味しい湧き水。
ここにある龍はいまも 湧き水を流しています。
「この龍だけ、生き残ったんですよ。 彼はこの首里城の500年の歴史をずっとずっとみてきたんです。」
ガイドさんはこう言いました。
そして龍は 何気ない顔して たんたんと水を流しつづけています。
まちぐあー(市場)を歩くとまちぐあーのおばあちゃんから言われました。
「あんた外人のガイド? 平和の礎にみんなを連れてかないといかんよ」
「はい、わたしもそう思います。」
沖縄の人は暖かくてやさしい目をしている人が多いです。
そして哀しい目をしていると思うのです。
「哀しい」という言葉の意味を知っている人の目。
国際通りを歩くと、三線(さんしん ― 蛇皮の三味線)を弾く音があちこちで聞こえてきます。
そして、暖かくてやさしく哀しい目をしたおじさんが三線を弾いています。
そういえば、と昔のことを思い出しました。
むかしオーストラリアで 琉球大学の学生と一緒にヒッチハイクをしたときのことを。
夜行電車に一緒に乗りながら ブリスベンに向かう電車のなかで、彼はこう言いました。
「僕は自分の子供に 悲しい、ということは知っていても 『哀しい』という意味はできれば知らないで育ってほしいと思っているんだ」
すれ違っただけのわたしは彼の人生など知るすべもないけれど、きっと彼も「哀しい」という言葉の意味を十分味わった人なのでしょう。
沖縄の人たちは十分に「哀しい」という言葉を知っている人たちです。
いま、まだ世界のあちこちで続いている戦火。
そして、「哀しい」という言葉の意味を理解する人たちが毎日増えています。
(文:勝井 まり 写真:勝尾 恵理子)