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金沢 観光編

このレポートは、 2003 年 5 月 10 日に掲載した 金沢 伝統工芸編 の続編です。

兼六園
兼六園
1676 年、前田藩の 5 代藩主綱紀がこの地に別荘と庭を造ったのが、兼六園の始まりである。その後 13 代藩主まで、完成に約 180 年の歳月を要した。1822 年に松平定信により広大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の 6 つを兼ね備える名園、即ち「兼六園」と命名された。確かに次々と目に入ってくる回遊式庭園の景観には、奥行きと広がり、優雅さが感じられる。また松の木の剪定がとても良く行き届いている。著名な見どころを廻った後、同じ園内にある成巽閣を訪れた。

成巽閣
成巽閣
成巽閣は 1863 年 13 代藩主前田斉泰が母、真瘤院の為に竹沢御殿の一部を移して造営した建坪約 300 坪の柿葺の屋敷である。金沢城から辰巳(東南)の方向に位置しているため、最初は辰巳御殿と呼ばれていた。 1950 年に国の重要文化財に指定された。名工達の手でさまざまな意匠が凝らされている。
1 階は武家書院造り、 2 階は数奇屋風書院造りになっている。屋敷内数箇所でテープ録音による解説が聞ける。特に 1 階にある公式対面の場であった謁見の間(檜 1 枚板に花鳥が両面から透かし彫りされた欄間を持つ)、 2 階の群青の間(ウルトラ・マリーンブルーという青色顔料を用いた色壁を持つ)が印象的だった。この群青の間に使用された青色顔料は、ラピスラズリ(青金石)を使っており、フランスで発明され日本に輸入された最初か、或いはごく初期のもので、当時としては非常に高価なものであったそうだ。また庭の景観を損なわないよう柱を 1 本も入れずに作った「つくしの縁」は、屋根の重みを梃子の原理で支えるよう拮木(はねき)を入れて軒先 をつくるなど、工夫が凝らされている。
五葉松、雄松、紅梅、楓などを配し、辰巳用水から分流された遣り水がゆるやかに流れる小さな庭園は、しっとりとした静けさで満たされている。日本建築、造園のどちらの視点からみても魅力的な場所といえる。

(北澤 明美)

妙立寺(別名 忍者寺)
妙立寺(別名 忍者寺)
日蓮宗 正久山
歴史
妙立寺(忍者寺) 初代藩主利家が金沢に入城して間もない頃、政治の理念を「日蓮宗・法華経の中道精神」に求めて建立した「祈願所」を、寛永 20 年(1643)、加賀 3 代藩主前田利常が金沢城近くから移築建立したものである。
利常は、多くの武士が起居できる寺院群を現在の寺町に新築し、その監視所として妙立寺を建立した。見上げるような屋根、望楼、隠し階段、切腹の間など、さまざまな仕掛けがあるため、「忍者寺」とも呼ばれている。

構造
当時、幕命で 3 階建て以上の建物は禁止されていたため、寺の外観は 2 階建てである。ところが、内部はなんと「 4 階建て 7 層」にもなっている。しかも、きわめて頑強に造られており、台風や雪害などにも充分耐えられる。中 2 階、中々 2 階など複雑な構造の中に 23 の 部屋と 29 の階段があり、最上階の望楼からは各方面を遠望でき、大井戸は「金沢城への逃げ道」になるなど、出城としての役割も果たしている。「忍者の寺」として建立されたわけではなく、幕府からの公儀秘密や外敵の目を欺くために仕掛けを施したものである。
以下、仕掛けのいくつかをあげる。

1. 仕掛け賽銭箱
本堂正面入り口に埋め込まれている。もともと深さ 2 ~ 3 メートルの「落とし穴」であったものを、家人の転落防止用に賽銭箱で蓋をしたのが始まり。

2. 明かり取り階段
正面の突き当たりにある。蹴込みの部分に障子を張って明かりを取り、外敵の足の影を見て槍などで倒すことができる。

3. 本堂裏の隠し階段
物置の引き戸を開けて床板をめくると、床下に地下の通路へ繋がる階段がある。床板に溝が刻まれているため、引き戸を閉めると「自動ロック」がかかる仕組みになっている。

4. 巨大な梁
堂内のいたるところに見られる巨大な梁は、雪の重みを分散するのに役立っている。

5. 望楼(物見台)
当山に特有のもので、本堂の屋根の先端部分にあるギヤマン(現在はガラス)張りの見張り台。金沢城へは「光による通信」も可能で、寺町台はもとより遠くは加賀平野を遠望、いち早く敵の動きを知ることができた。

6. 伝説の井戸
庫裏の中心に位置し、深さは約 25 メートル。通常は茶水に利用されたが、横穴があり、「金沢城への逃げ道」にもなっていたといわれる。

(川崎 明仁)

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