阪神・淡路大震災から10年・・・仁川百合野町地すべり資料館を訪ねて
1995年1月17日午前5時46分。6,433名の命を奪い、平和な日常を一瞬にして地獄絵に変えたあの時から月日が流れた。折しも昨年来、まるで地球が怒り狂ったかのような災害が続くなか、私たちは「あれからもう10年」、或いは 「まだ10年」、とそれぞれの思いのなかにいる。
私の住む西宮市の大震災による犠牲者は1,146名。市内には30箇所に震災モニュメントがあるが、阪急今津線仁川駅から西へ1.6kmの百合野町にある地すべり資料館は その一つである。静かに流れる仁川のせせらぎを聞きながら、両岸のコンクリートブロックで強化された広い斜面に生い茂る草花を見ていると、あの日ここにあった13戸が土砂と共に押し流されて34名が亡くなったことがとても信じられない。私の娘の同級生の一家四人も犠牲になった仁川の右岸では幅100m、長さ100mにわたって崩壊し、 約10万立方米の土砂が仁川を埋め尽くした。
資料館の右手には慰霊碑があり、いつ訪れても新しい花が絶えることがない。資料館(入館無料)に入ると、一階にはビデオで土砂災害の恐ろしさを知ることができる映像ルーム (50名収容)があり、土砂災害の仕組みを展示したパネルもある。
また二階の展示室には、地すべり対策工事の仕組みを示したジオラマ模型や、地震計・観測計の模型、対策工事の経過を示す航空写真などのパネルが展示 してある。観測室では実際に現地の状況が常時観測されている。
甲山森林公園を背景にしたこのあたりは、須磨から宝塚にかけて伸びる六甲山系に属しているが、六甲山は約20~30万年前に激しい地殻変動によって誕生し、近畿地方の大地移動に伴う圧力によって押し上げられて急激に高くなったもの。その際に周辺の大地との間に大きな地層のずれ、断層が数多くできた。その断層は繰り返し動いて急斜面を拡大させたり岩石に亀裂を生んだりして風化作用を促進させてきた。また六甲山はほとんどが花崗岩で、花崗岩そのものは堅牢な岩であるが、六甲山のように断層や亀裂が多いと風化が進み、その部分が地表で空気や水にさらされると砂状の非常に崩れやすい状態になってしまう。
人口増加で住宅地が山頂を目指して迫り続けている今日、土砂災害による人的被害の危険性も高くなる一方で、六甲山系には危険箇所が1,500もあるという。
あの日、予期せぬ自然災害のためとはいえ、亡くなった人たちはどんなに無念であったことだろうか。愛する人を失った人々の哀しみは如何ばかりだろう。「やすらかに」と刻まれた慰霊碑の前に立つたび、あの日の光景が蘇り言葉を失う。
(杉村栄子)