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【通訳ガイドレポート】通訳ガイド体験記 <イタリア語は私の運命でした>【NEW】

2025.3.15

私の場合、大学では英文学科に入り、2年目から史学科に進路変更し、専攻は英国史でした。当時はイタリアのことなど念頭にはなく、最初の海外渡航先はモードの街パリでした。ちなみに、結婚した相手は建築デザイナーで、イタリアのモダンデザインを愛する人でした。その夫と初めてイタリアに旅したのは1983年、これが私にとっては人生の転換点となりました。ローマで知り合った神父様にベルニーニを紹介する本を書いてほしいと言われ、以後、イタリア語を習い始め、イタリアの美術と歴史を学ぶべく、毎年イタリアに通うことになったのです。勤めも退職し、語学留学をくり返し、渡伊後8年目にようやく最初の著作を出すことができました。

  

 

ガイド稼業を始めたのは資格試験に合格した翌年、1994年、JFGに加入してからのことです。企業のインセンティヴツアーなどで複数台口の仕事をする機会には、諸先輩から丁寧な指導を受けることができ、今でも感謝しております。JFGのさまざまな研修もすばらしく、特に、高藤晴俊権禰宜による日光東照宮についての斬新な本質的解釈(北極星、三猿や獏の意味など)は今でも私の宝です。当初は渡伊費用を稼げればくらいの気持ちで始めたこの仕事でしたが、生易しくはありませんでした。観光地についての知識のみならず、日本の地理・歴史・文化に通暁することが必要です。学校教育では日本神話さえ教えていない今日、自国に関する勉強と読書が日常となり、面白くなり(イタリア人には、イエズス会の宣教など、日本と西洋の接点があった戦国時代末期と、お雇い外国人が活躍した明治維新あたりの話が必須です)、日本文化の素晴らしさを発見できました。ですが同時に、イタリアについての勉強と現地調査をも続け、1999年までに4冊の本を上梓しました。本が出ると講演会、講座、イタリアへの移動教室などの仕事も入るようになりました。

 

それが、10年ほど前から、来日するイタリア人が激増し始め、私は旅行ハイシーズンのほとんどを通訳ガイドとして過ごすようになってしまいました。それでも年に数回はイタリアに行き、新刊や改訂版を出したりしたのですが、彼の地のホテルで朝テレビをつけていると、頻繁に、富士山や舞妓や白川郷の映る日本観光のCMが流れ、これがまさしくわが国の政府のインバウンド推進策のひとつなのだな、と納得した覚えがあります。イタリアの大手旅行社も日本ツアーをシリーズ化し、実施の一年以上前からガイドを確保するようになりました。これは、安定した収入を得る目処が立つため、私たちにとっては悪くない状況だといえるでしょう。

 

私はイタリア語ガイドの仕事をできてつくづく幸せだと思っています。イタリア人の大半は明るく、思い返しても楽しい旅ばかりです。ツアーの参加者は、日本に関してさまざまな興味を抱いています。新婚旅行の年代の方々のほとんどは日本の漫画やアニメで育ったので、秋葉原ではうれしくて興奮します。映画の影響も大きく、『サユリ』(2005年)以降、伏見稲荷と祇園は必須の訪問地となり、リチャード・ギアが演じた『HACHI約束の犬』(2009年)のおかげで、渋谷も欠かせません。最近のアメリカドラマ『SHOGUN 将軍』、ヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAYS』を見たという人も少なくありません。ガイドは多様な質問に応えられるよう、多方面にアンテナを張っておく必要があります。たいていのお客様に「イタリアに住んでいたのか、行ったことはあるか」と聞かれますが、「たぶん70回くらい」と答えると、私を見る目が違ってきて、自分たちのお国自慢が始まり、新しい言葉や現状を教えてくれることもあります。コロナ禍明けは、行きたい気持ちが抑圧されていた反動なのか、ますます来日観光客が増えたように思えます。日本に対する関心も高まり、検索によって知識は深まり、若者の大半はお箸をうまく使えるようになりました。もはや中途半端な対応はできません。もうすぐ古希を迎える老女がいつまでガイドをやっていけるかはわかりませんが、骨密度に気をつけ、自分の命がすり減らないように注意しつつ、一期一会の精神でひとつひとつのツアーに全力を尽くすのみです。

(小森谷慶子 イタリア語 東京都)

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