menu

天平回帰、「興福寺」中金堂

2020.2.15

はじめに: 私はいつもJEGの研修を楽しみにしている。仕事に役立つだけでなく発見がいっぱいで心が躍る。今回は法相宗総本山「興福寺」の大森俊貫師に300年ぶりに蘇った「中金堂」を中心に貴重なお話を伺った。

 

参拝経路:「南大門跡」から階段を上り「中門跡」から眩しいほど美しい「中金堂」をまず見てほしい。ここは「奈良公園の中のお寺」ではないことがよくわかる。

 

「興福寺」: 710年の平城京遷都に伴い藤原鎌足の2番目の息子である藤原不比等が飛鳥から「厩坂寺(うまやさかでら)」をこの地に遷し「興福寺」と号した。その後、藤原氏の氏寺として繁栄した。寺の境内は「平城京」の東側に広がり境内は土壁で囲まれていた。約2,616平方メートルの敷地を持ち土塀の外にも子院や僧侶の住居が広がっていた。8世紀頃から「春日大社」と一体の組織となり明治の廃仏毀釈まで続いた。今でも「興福寺」の僧侶は朝、「春日大社」を向いて2拍手している。

 

不比等が建立した伽藍は「南大門」、「中門」、「中金堂」、「回廊」、「講堂」、「経蔵」、「鐘楼」、「僧坊」である。有名な「五重塔」は不比等の娘、聖武天皇の皇后光(こう)明子(みょうし)の発願。なんと1年で完成させたそうだ。おそらく「興福寺」で1番人気ある「阿修羅像」も光明子の発願である。「西金堂」の本尊の「釈迦如来」像を守るために八部衆として安置されていた。 現在は「国宝館」に安置されている。「興福寺」は100回以上火事を経験した。それでも、歴代お堂は常に「元の通り」に天平風を踏襲している。これから何百年かけて天平の伽藍が蘇るそうだ。

 

「中金堂」:当初は「金堂」であった。後に「東金堂」、「西金堂」が建立されたため「中金堂」と呼ばれる。藤原不比等の創建時の伽藍。2018年10月に落慶法要が執り行われた。8度目の復興で創建当時の様式に復元された。1717年に焼失後、100年経って住民の寄進で再建されたが財政的理由で「元通り」には再建できなかった。その後、神仏分離令、上知令で「中金堂」は没収され警察署として使用された。そのため須弥壇が取り除かれ、鎮壇具が出土した。これらは東京国立博物館と「国宝館」に収蔵されている。

 

1998年に多川俊映貫首が「興福寺境内整備構想」を発表し宮大工の滝川昭雄氏と瓦大工の山本清一氏に工事を依頼した。2000年に「中金堂」を解体。発掘調査で66個の巨大な礎石のうち64個が創建当時のままであることが判明した。「興福寺」に残された資料と柱の位置の確認により「天平回帰」の夢が可能になった。「創建時の姿を木造で再現し、1000年残る建物をつくる」という理念のもとスタートした。問題は費用だった。興福寺は檀家を持たない。さらに「中金堂」は100%復元なので国からの援助もなかった。それでも寄進、浄財、展覧会や勧進能などで費用を賄った。最も大事な木材は10年の歳月を掛けてカメルーン産アパとカナダ産イエローシダーを計500本購入した。現本尊の「釈迦如来」は5代目で1811年作の丈六坐像。文化財の指定を受けていないので金箔が押し直された。「金堂」とはまさに金色に輝く本尊を安置するためのお堂である。

 

さらに多川貫頭は「平成の法相柱」を再興した。これは「法相宗」の「祖師影像」を描いた柱である。本尊の正面に向かって左の「西第一柱」がそれにあたる。日本画家、畠中光亮画伯がインド、中国そして日本の14名の祖師方をラピスラズリの群青色の背景に描いた。柱も礼拝の対象である。こうして300年ぶりに「中金堂」に「天平の空間」が蘇った。眩しく金色に輝く本尊「釈迦如来」、丹色に塗られた柱、さらに群青色の「法相柱」を拝観すると1300年前の「興福寺」の繁栄ぶりが目に浮かぶようである。

   

                        酒井 陽子(フランス語)

ページ
トップ