JFG 地方便り < 北九州のグレタ・トゥ―ンベリ物語 >
2020.8.15
昨年、16歳の少女が国連でCO2削減、地球環境を守ることを訴え、一躍「時の人」となりました。
時には「ガキ」「小娘が何を言っている」などの批判にさらされながらもひるまず行動を続ける彼女の姿に共感を覚えます。そして私の住む北九州市にも彼女のように多くの困難、批判にさらされながらも、
公害から町の自然、家族の健康を守り戦った女性たちがいたことを思い出します。
北九州市は1963年に小倉、戸畑、八幡、門司、若松の五市が合併して誕生しましたが、彼女たちが公害問題に立ち向かう行動を起こしたのは、五市合併の少し前のことでした。
明治時代、日本は急速な近代化を推し進め、1901年に官営製鉄所が八幡に建設されました。1960年代に入り高度成長期を迎え、洞海湾沿岸には製鉄所をはじめ化学、窯業などの工場が集積し、四大工業地帯の一つとなりました。2015年「明治日本の産業革命遺産」として23施設が世界遺産に認定されましたが、その中には官営八幡製鉄所の4施設も含まれています。日本の産業近代化で北九州は大きな役割を果たしたと言えるでしょう。
最盛期には製鉄所の煙突が62本も立ち並び、赤や黒、灰色の煙が24時間絶え間なく吐き出されました。人々はその光景を「七色の煙」と呼び、繁栄のシンボルとしてもてはやしました。
しかし、繁栄と同時に空も海も汚れ、洞海湾は魚はおろか大腸菌さえ住めない「死の海」と化し、晴天でも空は灰色でした。工場周辺には多くの社宅がありましたが、戸外に干された洗濯物はばい煙で黒く汚れ、日に何度も部屋を掃除しなければならないほどでした。喘息や気管支炎の子どもたちも増えてきました。それでも市民は「我々の生活は工場のおかげ」とこれを受け入れていたのです。
しかしついに地元婦人会が「家族の健康を守らなければならない」と立ち上がりました。
家族が公害元の工場で働いているという現実の中で、どう取り組むべきか何度も話し合い、有識者にアドバイスも求めました。そして先ずは「公害を知ること」という結論に達し、主婦目線で調査を開始しました。例えば、戸外に濡れた白いシーツや白シャツを干し、10日毎に汚れ具合を調べ、空箱にたまるばい煙の量も調べました。小学校の欠席者数も調べ、ばい煙が多い日に欠席児童が増えるという事実もつきとめました。記録映画「青空がほしい」も自主製作しました。
その間にも会社や家族からの圧力に屈し、婦人会を離れる女性もいました。
1951年データをまとめ、環境改善を市議会に訴えました。提出されたデータの深刻さに驚いた市議会は、早急に工場と協議を重ね問題改善に取り組み、行政も徹底した大気汚染・水質調査を開始しました。住民と企業間の話し合いでは損害賠償金を請求はせず、その費用を公害防止の為の技術向上に充てるという考えが重視され、市の公害対策技術は飛躍的に進歩しました。
勇気ある彼女たちの行動が発端となり、産学官民が一致協力して取り組んだ結果、「死の海」と呼ばれた洞海湾も1980年代にはたくさんの魚が戻り、青い空ももどってきました。
その過程で培った技術やノウハウを活かし、北九州市は環境先進都市として133ヶ国、5300人以上の研修生を受け入れ、公害問題に苦しむ地域への国際協力や人材育成も行なっています。
最近では産業観光ツアーや工場夜景ツアーも人気を集めています。
官営八幡製鉄所跡地にそびえる東田第一高炉のモニュメント近くに「環境ミュージアム」があり、公害克服の歴史や婦人会の活動がわかりやすく展示されています。自主製作映画「青空がほしい」も鑑賞できます。北九州にお越しの時は是非足をお運びください。
青空をバックにそびえる第一高炉モニュメントを眺めながら、この青空を取り戻すために忍耐強く活動した女性たちに負けないよう、私も地球環境を守るために身近なところからでも取り組んでいきたいと思います。
(磯田 章子 英語)