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風船爆弾

2020.9.15

例年8月といえば平和への想いを強くする時期ですが、今年はコロナ禍で各地の平和祈念や戦没者慰霊の式典も規模が縮小されました。

お客様へのガイディングの際に、戦争に関する話を避けられる方も多いかと思います。しかし,2020年の今年は戦後75年という節目、今回は「風船爆弾」をご紹介します。江戸東京博物館の「空襲と都民」コーナーに復元模型が展示されているので、ご存知の方も多いかもしれません。

(風船爆弾1/10模型)

 

「風船爆弾」とは、アジア太平洋戦争末期に日本陸軍が「最終決戦兵器」として開発した世界初の大陸間横断兵器です。無人の気球に炸裂弾や焼夷弾を吊るし、上空10,000mを偏西風に乗せてアメリカ大陸を直接攻撃しました。その作戦は秘密裏に実行され、「ふうせん」の頭文字から「ふ号」という秘匿名と呼ばれました。1944年秋から翌年春までに約9,300発が放球され、そのうち約1割がアメリカ大陸に到達したと推定されています。オレゴン州では民間人6人が犠牲になりました。

 

気球部はこんにゃく糊で張り合わせた和紙でできており、中には水素を充填しました。気球の直径は約10m。気球部は日本全国で製造され、貼り合わせは主に高等女学校の女学生による手作業で行われました。東京では日劇や両国国技館、京都では祇園甲部歌舞練場、大阪では道頓堀の映画館や劇場などが接収され製造工場となるとともに、製造の最終行程である満球テスト(充填した気体が漏れないことを確認する検査)が行われました。

(満球テスト)

 

材料の和紙は、後には機械漉きのロール紙も使用されるようになりましたが、当初は手漉き和紙が使用されました。今では世界遺産に登録されている和紙ですが、実は、こうした形で兵器として使われた歴史があります。

 

アメリカでは原子爆弾が着々と実用化されていた時に、なんと子供のおもちゃのような兵器を造っていたのだろう、と情けない気持ちになりますが、この風船爆弾、もとは、家畜を全滅できるほどの殺傷能力の高い「牛疫ウイルス」をフリーズドライ化して搭載し、アメリカ全土をパニックに陥れようという計画がありました。しかしアメリカの報復を恐れた陸軍は、実際にはウイルスを搭載しませんでした。

 

風船爆弾と原爆には意外な接点があります。当時、長崎の原爆に用いられたプルトニウムの生産工場であったハンフォード・サイト(ワシントン州リッチランド近郊)付近の送電線に風船爆弾が不時着、一時的に電源がストップし工場操業の完全復旧までに三日間を要した、というものです。日米の、共にトップ・シークレットとして進められた作戦にこうした接点があったことに驚かされます。

 

敗戦国である日本には、凄惨な被害に関して展示する資料館は数多ありますが、敵国への攻撃方法がわかる資料は少ないです。ですが、非人道的な人体実験を行った731部隊などは世界的に悪名高いですし、中には日本の歴史の暗部に興味をお持ちのお客様をガイディングすることがあるかもしれません。そうした際に、わずかでもお役に立ちましたら幸甚です。

 

私はガイド業と兼ねて、この風船爆弾を開発した「陸軍登戸研究所」が戦時中に行った事柄を展示する「明治大学平和教育登戸研究所資料館」の職員でもあります。

 

現在は臨時閉館中ですが、再開の際には皆様のご来館をお待ちしております。

 

明治大学平和教育登戸研究所資料館

http://www.meiji.ac.jp/noborito/

 

参考文献:

Robert C. Mikesh, Japan’s World War II Balloon Bomb Attacks on North America, Smithsonian Institution Press, City of Washington, 1973

Bert Webber, Silent Siege-III, Web Research Group, Medford, Oregon, 1992, Third Printing 1997

吉野興一『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』(朝日新聞社,2000年)

『明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブック』第五版(明治大学平和教育登戸研究所資料館,2019年)

 

写真データ提供:

風船爆弾1/10模型 明治大学平和教育登戸研究所資料館

満球テスト ありらん文庫(林えいだい氏旧蔵)

(椎名 真帆 英語)

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