研修会レポート < 渋沢栄一 ~日本近代の扉を開いたビジネスリーダー~ >
2021.8.16
7月13日午後、大阪大学名誉教授 宮本又郎先生による「渋沢栄一 ~日本近代の扉を開いたビジネスリーダー」のオンライン研修があった。NHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公の歴史と功績をじっくり学んだ。
(宮本 又郎先生)
人はいつ「偉人」となるのだろうか。「マネジメントの権威」P.F.ドラッガーが数ある蔵書で称賛したという渋沢栄一とはどのような人だったのだろうか。
1.生い立ち
1840年現埼玉県深谷市に、農業だけでなく養蚕や藍玉製造販売なども行う豪農の家に生まれる。幼少より商才もあり文武両道。論語、水戸学をも学び尊王攘夷思想に染まる。22歳頃に横浜外国人居留地襲撃を計画し、結局中止したが京都へ逃亡。以来一橋家家臣となり頭角を現す。一橋慶喜が将軍になるに従い、倒幕派から佐幕派へと転身する。27歳で渡仏使節団の一人として約1年半滞欧。この時得た経験をもとに明治政府官僚として、新貨条例・銀行制度など日本の進路を決めた重要な改革を手掛ける。33歳で下野し、財界人として第一国立銀行を初めとして五百数社の企業創立運営に関わり、1931年91歳で没した。
2.実業家としての渋沢
銀行、交通機関、事業を生み出す株式会社、これら三つで物と人とお金の流通を促し経済発展を図るというサン・シモン主義の考えを元に、「資『本』を『合』わせる」という意味を持つ「合本主義」の実践に努めた。株式会社は金持ちの富と貧者の能力を有効活用する仕組みであり、金銭に対する穢れ感を払拭し、真っ当な利潤追求を行う社会を実現する手段であると考えた。明治期には新興産業の機会はいくらでもあったが、お金と人材という二大問題があった。資本調達は、有力経済人が中心となり、信用による株主の縁故募集をした。さらに経営者人材の発掘・育成には、第一国立銀行の部下たち等々、渋沢の人的ネットワークが大いに活用された。設立当初の株式会社は寄り合い所帯に過ぎず、渋沢は調整者としても活躍した。
渋沢栄一の合本主義の「合本」とは「資本結合」と「人的結合」を合わせたものである。それは匿名の人々の単なる資本結合(株式会社)ではなく、「顔の見える」人的結合だったことが特徴的だ。渋沢は結合の触媒としての役割を果たし、未成熟な市場に代わるものとして、実際の市場で合理的に行動している個人に混じって利益中立的に行動した。
3.経済指導者としての渋沢栄一
渋沢は数々の経済団体を創立した。特に東京商法会議所は不平等条約の改正交渉にあたり、経済界の世論形成のため設立し、初代会頭に就任した。政治・外交・教育・文化などの広範な分野に対し、経済界代表として発言し、政府と財界とを媒介する役割をも果たした。実業教育や女子教育にも関心を寄せ、東京商法講習所(現一橋大学)、日本女子大などの創立にも関わった。社会福祉事業として東京養育院の設立から積極的に経営に関与し、他界するまで合理的経営を行った。労使問題でも「労使一体の協調主義」を掲げ「協調会」を設立し、労働争議の調停や講習会を行った。83歳のときの関東大震災では米から義援金を集めるなど大いに活躍している。
4.「道徳経済合一説」
道徳と経済とは本質的に一致する。信用され誠実であれば取引コストは下がり、他者の利益を尊重することによって、自分も利益を得ることができる。人々の生活を豊かにする経済は大変重要であり、利益の還元として社会貢献活動が大事であるとした。『論語と算盤』は渋沢栄一の説く「道徳経済合一説」を出版したもので、論語=道徳、算盤=経済である。経済活動による利益は必要であるが、私利は商業道徳を守っていることを前提とする。さらに渋沢は公益につながる私利を重要視した。
江戸時代以来の根強い賤商観に対し、道徳経済合一説により、意識変革のイデオロギーを創出した点が、渋沢の最も大きな貢献である。
5.渋沢栄一から何を学ぶか
残念ながら「渋沢栄一」は大河ドラマで見聞きするまで存じ上げなかった。今なぜ彼に脚光が当たり「偉人」とされるのか。生まれ・育ち・人柄・才能・運、全てあっても十分ではないらしい。時代が彼を呼んだ?では彼のどこに何を学ぶのだろうか。この研修から各々の視点を育みガイドに活かしていきたいものだ。
(大本美千恵 英語)
(なお詳細な研修レポートは組合員専用ページの業研レポートをご覧ください)